昭和52年3月13日 朝の御理解
中村良一
御理解 第70節
「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ。」
金光様の信心を頂いておれば、道理に合う信心をしておるという事ではない。どの教えを頂いても、真に道理に合うた御教えばかりである。からと言うて、金光様の信心を頂いておるから、道理に合う信心を頂いておるとは言えない。どこまでも、そこに、道理に合うた生き方と同時に、道理に合うた、なるほど、なるほどと合点の行くおかげを頂き現していかなければ、道理に合う信心をしておるとは言えない。
昨日、熊本の矢野先生のことで、私がお夢を頂いたことを、昨日聞いていただきましたよね。合楽の場合は、どこを、どれを取ってみても、ほんならば、実証的であるということ。これは、私なりではありましても、道理に合うた生き方をさせて頂いておるから、道理に合うた実証が、私の周辺に現れてくるのである。もう、本当に、あの、現の証拠を合楽では、もうそれこそ、限りなく、その取られること、取ることが出来るとこう言う。現の証拠という薬草ですね。本当に、こういう信心をすれば、こう言う答えが出るんだと。言うならば、五と五と足せば、十になるんだと。それを、はっきり、十の答えを出して見せてあるのが、合楽の、私は、信心であり、合楽でまた、現れておるおかげの状態だと思うのです。ですから、五と五と足して、十にならないならばです。やはり、これは、自分が計算間違いをしておるんだと悟らせて貰うて、いよいよ、道理に合う信心とはと言うことに、焦点を置かなければいけない。そこに、限りない精進がなされていかなきゃならない、ね。正確な計算、正確な答え。人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心。そこで、私は、今、教団で言われておる宣言文と申します、ね。「天地の道理の基づく生き方を進め、自然の生命を重んじ、自然と人間が、調和する社会を求めていく」とあります。ね。天地の道理に基づく生き方をしておるから、自然の、または、生命を重んじ、自然と人間との調和、そこに、素晴らしいタイミングが生まれてくる訳です。しかも、それを、自分の周辺に、社会に広めていこう。押し広めて行こうと。ね。こういう素晴らしい、生き方があるんだと、ね。
ところが、実際は、そう言うておるだけであって、ね。実証的に、ほんなら、自然との調和を乱さず、破らず、素晴らしいタイミングの中に、日々を、おかげお繰り合わせを頂いておるという人は、ごく、稀である。ね。そこに、私は、もっとこの、宣言文に現れておるところの、天地の道理に基づく生き方というものの研修をなされなければならないと思うわけです。どういう、なかなか、それを、具体的に教える。具体的に行じて見せる。そして、具体的に答えを出して行くと言う。私は、合楽ほど、そういうはっきりした答えを出して行っておるところはないのじゃないだろうかと思うのです。そこでね、やはり、私共が、その、こう言う生き方という、その生き方を示される訳です。だから、それを行ずる心の状態というものが、いわゆる、万物の霊長であるからと仰せられます様に、万物の霊長に相応しい私共に、先ずは、ならなきゃならないという事です。そこに、改まりもある、磨くという事もあろうが、結局、私共の信心によって、頂くところの、まぁ有難いという心です。信心を頂かなければ頂けない。有難いなぁ、勿体ないことだと言う、そういう有難い、勿体ないの心をもってして、天地の道理に基づく生き方が出来る時に、まぁ言うならば、完璧な生き方という事になるのでしょう。そこから、次第に、ね。素晴らしいタイミングが生まれてくる。ご都合、お繰り合わせをお願いして、無理に合わせていくといった様なおかげではなくて、自ずと、素晴らしいお繰り合わせの中に、いわゆる、日々を、こんなにも間違いのない神様の働きの中に、お生かしのおかげを頂いておる事であるから、ね。それが、自分には、都合の悪いことであっても、それが、痛いこと、苦しいことであっても、やはり、そういう間違いのない働きの中にある事として、それを頂いていくことが出来る。
で、昨日、私は、美登里会の中で、お話をしたことの中に、この、要目をね、天地の道理に基づく生き方。なかなか、あまりにも漠然として、大き過ぎるから、ね。合楽理念に基づく生き方を進めと、ね。自然の生命を重んじという事は、ね。成り行きを大事にする、成り行きを尊ぶという事は、自然の働きを重んじておるから、合掌して受けていくわけなんですよね。それは、合楽で言われておる、成り行きを尊ぶ、成り行きを大事にするという生き方を、いよいよ、身に付けていくということである。
自然と人間が調和するというところを、神と人とが調和するという風に頂くと、もう少し、実感的に頂けるような感じがするんですね。自然との調和というよりも、神様、神様との調和。そこでほんなら、私共が、神様の心に調和する心を、いよいよ、工夫していかなければならない。頂いていかなければならないという事になりますよね。ほんなら、それを、どういう心かというと、有難いという心という事。どうしてこんなに有難いことがあったのに、有難いことなのに、今までは、有難いという事に気が付かなかっただろうかという様な、有難さが、改めて頂けてくる。それを、まぁ合楽では、大祓い信行に徹するという風に言われます。
昨日も、えー、期せずして、あの秋山さんと、上滝さんが、先日、久留米の共励会のときに、秋永先生に、あんたどん、大祓い一巻どん上げてなんてんち言うちから、少なくとも五巻は上げにゃと言って、もう、まぁ二人とも言われたとこういう訳です。それで、もう以来、大祓いを、五巻づつ上げさせて頂いておるが、もう、どうしてこげな、有難いことを気が付かなかっただろうか。もう半ばで一遍、涙を拭かなければ、先が上げられんほどしに有難くなるという事を、二人が、口を揃えて言っておりますよ。本当にあの、言うならば、間違っておるところは、間違っておると、ぴしゃっと言うて頂くと、人は思っておるということは、本当に有難いというて、昨日は、その、秋永先生に言われたということを、二人ながら、口を揃えて言っておられます。こんな有難いことを、どうして、あんなに、いわば、大祓信行が、合楽での徹底を期するのだと、去年ですかね。もう去年の正月の時に、その、言われておったにもかかわらずです。どうして、ほんなら、あの時には、ね。少なくとも、大祓い十巻づつぐらい、毎日上げなさい。十年続いたら家が建つよと、家がなか人には。ね。言うならば、色んな願い事は、必ず成就するよという様な意味で、あの、私は、大祓信行を皆さんに、まぁ言うなら、宣伝を致しました。以来、皆さんが、大祓信行を続けておる人もある、続けていない人もある。続けたり、続けなかったりという人もあるという事。
だからね、信心というものは、徹底するという事にあるんですよ。ね。だから、大祓い十巻が出来んなら五巻、五巻が出来んなら三巻、問題はです。こういう有難いことをと、自分で分からせて頂けるところまで進めていかなければいけない。大祓信行というものは、こんなにも有難いもんだ。本当に、おかげを頂かんならんから、お神様の前で、大祓いを上げるというのではなくて、金光様のご信心を頂いている者としては、もう当然のこととして、御神前に声高らかに、大祓いを奏上させてもらう、それこそ、無条件の奉仕である。神様が、生き生きとして見えない筈がない。神様に御神飯を差し上げるようなものだ。その証拠には、今度は、神様の喜びが、こちらへ返ってくる。それを昨日は、二人の方が言ってます。途中で、もう涙がこぼれて、涙が流れて仕様がない。こういう有難いことを、どうして今まで、気が付かなかっただろうかと言っております。ね。神様が、栄養失調になってござるから、働きを生き生きと頂けんのだ。神様が、生き生きとして見える。そこに、神様の働きも、また、生き生きとしてくるだけではない。自分の心の中に、こういう有難いものが、頂けるという事は知らなかった。それは、どういう事かというと、自分の、いわゆる、自らなる心の神が生き生きとして見えるということなんです。神様だけが、生き生きとして見えると思うておったら、自分の心のなかの神様までも、生き生きとして見えた。そこに、ね。神と氏子との交流がある訳です。ね。
自然と人間が調和すると、まぁ本部では、宣言文にありますが、そこんところをです、ね。神と人とが、ね。調和する世界。どういう風にしたら調和するだろうか。もう一番簡単な、一番素晴らしい、私は、調和の求め方だと思います、ね。
大祓信行、本当に、自分の心のなかが有難うなってくる。涙がこぼれるごと有難うなってくる。その心と、神様の心とが交流しないはずがない。ね。そういうところを一つの手立てとして、次の交流を図っていけれる信心が、それを社会に求めていく。それを私は、社会に広げていくという風に見分けている。自分の周辺に、それを広げていくという事です。大祓信行という事は、こんなにも尊いものである。こんなにも有難くなれれるもんだ。だけではない、神様までが、生き生きとして見えると言うのである。ね。そういう信心がです。繰り返し繰り返し、五年、十年経つなら、なるほど、願いが成就するはずだと思いますね。神様と交流し続けるんだもの。そこにほんなら、人間は万物の霊長としての、言うならば、値打ちを発揮する事が出来ると言うことです。人間だから、万物の霊長と、ね。それは人間の面しとるけれども、心は、人面獣身という人たちも、沢山あるんだという事です。ね。人間に特別に与えられた、信心に、しかも、よらなければいただけない、有難いと言ったような心はです。これは、霊長であるからです。牛やら馬が、幾ら拝うたっちゃ有難うはなりゃぁせん。ね。人間は、万物の霊長だから、私共が、そのことに精進させて頂くことによって、はぁ、これが霊長の印だな、値打ちだなという様に、自分自身が、尊いものに、有難いものに、言うなら、親ながら、和賀心が拝みたいような心の状態が開けてくる。そういう心の状態が、言うなら、自然と、いうなら神様と交流するわけです。ね。天地の道理に基づく生き方というところをしても、合楽理念に基づく生き方というものを、いよいよ、求めていかなければなりません。
昨日、秋山さんの、やっぱり、発表のなかに、大体、理念という事は、どういうことであろうと、あの、字引を引いていた。西岡先生、あれ控えてある。私は、これを聞かせていただいて、皆さんも、これを聞かれたら、もう、いよいよ、合楽理念をマスターしなければ、マスターて言うが、もう自分の血に肉にすることに、精進しなければおられないほどしのものを、そういう衝動が起きてくるのじゃなかろうかとさえ、私は、昨日思うた、この説明を聞きながら。ちょっと聞いて下さい。理念というのはね。「理性の判断から得た、最高の考えで、全て経験を統制するもの。全経験をを統制するもの。」もう一遍読もう。「理性の判断から得た、最高の考えで、全経験を統制するもの」ね。理性、物事を、筋道立てて考え、正しく判断する能力ということ。これは、私が、二十数年間、ね。私は、どちらかというと、非常に、情に棹差せばという風に、強い男なんです。言うならば、感情過多なんです。感情が、人よりか、少しだぶだぶしとる訳です。だから、その感情が、自分の過多であるという事に気付いて、それを抑えるだけでも大変な修行でした、私の場合は。ね。だから、随分、色んな非難も受けてまいりましたけれども。そして私がおかげを頂いておる事はです。そういう自分の、多すぎるほどしのものを押さえながら、そして、日々の生活の中に、言うならば、今から申しますと、あれが合楽理念の実行をしておったんだと思う。いうならば、成り行きを、いよいよ尊び大事にするという生き方を身に付けて行きよるうちに、はっきり、それに答えが出てきたという事です。五と五と足せば、確かに十になるという。もし、これが八になったり、九になったりした場合には、もう一遍、足したなら引いてみる、引いたなら足してみるという様な生き方を、私は、二十数年間続けてきたという事です。理性の判断から得た最高の考えで、全経験を統制すると、ね。理性、物事を、筋道立てて考え、正しく判断する能力。そこに、ほんなら、筋道立てて、最近、合楽理念というものが、確立を急いでいる訳です。ね。
今、言われておる、合楽理念という事は、物事に、筋道を立てて考え、正しく判断する能力です。私が、二十数年間、こう言う生き方に成れば、絶対だ、間違いがないんだと。言うならば、もう、ここの一線上に出た時に、これから先は、迷うことはない。この生き方を身に付けてさえ行きさえすれば、しかも、なそうと思えば、ね。誰でもなせれるほどしの、難しさのない、言うならば、有難くて、楽しくて、そして、愉快で、それを実行していくことの出来れるほどしの道を、合楽理念というのだ。しかも、私の理性の判断から得た、最高の私の考え方なんだ。だから、最高の考え方であるだけに、私は、絶対という言葉を使うのである。ね。ここの、お互い、理念に立たせて頂いて、これを、一日の行の上に、しかも、なら、大祓信行に精進させて貰い。自分の心が、どうしてこんなに有難くなるだろうかと言う、有難い心をもって、合楽理念に取り組んでいく。もう、楽しゅうなって、有難うなって、ね。もう、それこそ、愉快でたまらんというような信心生活が、身に付けていけれる、そういうおかげを受けられるんだと。まぁ、合楽では、言っておるわけです。ね。
私は、合楽理念という事は、理念という事が、こういう内容を持っておるものということを知らなかった。ね。そしてほんなら、私の信心を、二十数年間を振り返って見て、あぁでもなからにゃ、こうでもないと、もう、いよいよ、生粋の答えを出して行きながら、それこそ、現の証拠じゃないけれども、現の証拠を、そこに見せながら、実証しながら、今日まで、合楽理念が確立のための信心修行をさせて頂いた。もうこれ以上のことはなかろうと思っていたところへ、それこそ、なせばなる、なさねばならぬ何事も、なさぬは、己が、なさぬなりけりといった様なです。もう、それこそ、これだけの事をしておりながら、なそうと思や、子供でも成せる様な事を、不実意に、それを、もう、よかよかで、ほうからかしておった様な事に気付かせていただいて、今、その事が、しきりに言われておる。それを、ほんなら、信行という事。信行によってカバーして行く。ね。履物一つ、脱ぎ揃えるでも、ね。お風呂へ入らせて頂いて、タオル一つ、使わせて貰うでも、石鹸一つ、使わせて頂くでも、自分の心を使うて、それを使うていく、そういう事が、非常におろそかになっておったことを、合楽の、私、始め、皆が気づかせて頂いて、いよいよ、信行に取り組ませて頂いて、それこそ、水も漏らさぬ生き方を身に付けて行こうという風に、精進しておる訳です。ほらもう、そげな事も、面倒くさくて応えんという事ではない。そうして行くことが、そうしていかなければ、先には行かれんというほどしのものなんです。ね。
皆さん、この、いわば、理念という事が、そういう、ほんなら、私の二十数年間の、それも間違ってるか、間違ってないかを、引いたら足してみる。足したら掛けてみる、いや、足したら引いてみる、ね。掛けたら割ってみる、割ったら掛けてみるという様な生き方をもってして、もう間違いがない、これを体得して、これを行くならば、そこのい、はっきり言えれることは、いわゆる、金光教によるところの、助かりの理念ということまでに、高められてきた訳です。ね。ただ、有難い、勿体ないで、おかげ受けておるというのじゃない。神様に、我武者羅に御祈念をして、それこそ、火の行、水の行してから、神様をごうぐる様にして頂くおかげといった様なものとは、大変、内容的に違ってきた。ね。
合楽理念に基づくところのおかげ、いわゆる、助かりの理念であるという事が、いよいよ、はっきりしてきた。合楽的には、分かっておりますよね、皆さん。理念という事は、今申しましたような内容を持っておる。ね。合楽という事は、どこまでも、金光教の、いわゆる、独壇場であるところの、神も助かり、氏子も立ち行くという意味なんです。氏子と神様が、ね。合楽、いわゆる、拝み合うていく生き方、御礼を言い合うていく世界、ね。それを、一つの過程を以って、いうならば、ね。善導寺、勿体島、椛目、常持、合楽という事になるのです。ね。私が、おかげ頂さえすりゃ良いと言うのじゃぁない。
昨日、上滝さんが、発表してましたが、もう、本当に、何十年信心させていただいて、信心とは、自分の一家が円満で、そして、万事万端にお都合お繰り合わせいただいていきゃ、それでお礼参りをさせてもらや、それで良いと、もう何十年間、私は思い続けておった事をです。今度、十年祭と言う、この節に当たった途端にです。私の心のなかに、弾き返るように、今までの信心の間違いに気が付いたという事を発表してます。ね。私が、おかげを受けたという事は、そのまま、神様も、おかげを受けてくださったというものに繋がらなければ、本当の信心じゃないことに気づかせて頂いて、その気づかせて頂いたことが有難い。私は、いわば、今、おかげを頂いておる、このおかげを頂いておる姿を以って、いよいよ、十年祭を目指させて貰おうという意味の、ね。そういう生き方を、合楽を目指すという事になるのです。ね。自分が喜べれる、神様も喜んで下さる世界。そういう世界を創造していく。言うなら、和賀心時代を、世界に広げていくという、言うならば、その内容は、合楽理念からでなからなければ、生まれてこないという事です。確かに、合楽理念とは、助かりの理念だと。しかも絶対、いわゆる、間違いのない、二十数年間、それこそ、私が、研修に研修、検討に検討、自分の、言うなら、我情とか我欲とかも出てくるでしょうが。そういうようなものを、押さえに押さえてです、ね。自分の、言うなら、そういう感情の、言うならば、過多症に悩みながら、それを押さえながら、ね。行きませんと、答えが出てこないのです。本当に、ええ答えになる、ね、その答えを、はっきりしたものにしていきながら、それが、言うならば、昨日、矢野先生が、夢の中に現れてくるように、ね。実証しながら、信心とおかげとを対照しながら、そして、間違ってない証拠には、こういうおかげが現れてくるであろうがということを示しながら、今、合楽理念を、お互い、勉強させて頂いておる。ほんなら、今日は、この理念ということ、いわば、合楽理念という事をです、そんなにも、間違いのないものだという事を、皆さんに、今日は聞いていただきました。分かっていただいたと思うのです、ね。
人間は、万物の霊長だから、先ずは、霊長としての値打ちを、先ず、作ってからの、いうならば、行である。ね。それを、端的にいうと、大祓信行によって、自分の心が、いやが上にも有難うなってくる。その有難うなっていく精進を、一生懸命させて頂きながら、合楽理念に基づいてという、いうならば、天地の道理に基づく生き方を進めと、ね。それは、いかにも漠然として、なかなか、具体的に、もう、合楽で、この合楽理念ということを、この事をです、いうなら、合楽理念に基づく、いうなら、生き方という事は、もう、本当に、具体的にです。日常生活の中に、ね。頂き、私共の生活の中に溶け込んでくるほどしの内容を持った、いわば、説き方がしてある訳ですから、ね。いよいよ、それを、自分の身に付けていって、ね。いよいよ、素晴らしい、自然と人間が調和する、いわゆる、神と人との調和する、言うなら、合楽の世界である。ね。その合楽の世界を、いよいよ、社会に求めていくと、本部では言っておられますけれども、その世界をです。私共の周辺に、言うなら、光臨の和を、いよいよ、広げに広げて行こうというのが、神様の願いなのですから。そういう願いに応えての、いわば信心を、いよいよ、させて頂かなきゃならんという事であります。どうぞ。